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 人は誰でも心の奥底に沈む「澱」を持っている。悩みなどないような友人に、悩みぬいて相談した時思いもよらぬ過去の「澱」を打ち明けられたりする。
 これもそんな「澱」のひとつだ。まだ携帯電話の無かったころの話である。


*

 電車の中で女に声を掛けた。
 好みのタイプだった。
 彼女は自分の口を指差し、唸り声を上げた。
 聾唖者だったのだ。
 おれはメモ帖を取り出し、こう書いた。
 「すみません。八王子へ行くにはこの電車でいいですか?」

 何度かメモ帳のやりとりをしたあと、彼女を喫茶店に誘うことに成功した。中学時代の友人に聾唖者がいたので障害は気にならなかった。
 おれと彼女は夢中になって筆談をした。楽しかった。何度もふたりで笑い、互いの悩みを話し、励まし合った。

 その晩ふたりはホテルに泊まった。
 彼女は処女だった。
 その頃には彼女と一緒に生活したいとまで考えていた。容姿も好みだったし、明るく快活で素直なところにも惹かれた。それに、ふたりは気が合っていた。

 朝、わかれ際、彼女に電話番号を教えてくれとメモを渡した。
 彼女はまた自分を指差し、唸り声を上げ、手を駄目駄目というように小刻みに振った。
 ショックだった。
 「こんなに気が合ってるのになんで教えてくれないんだ」 そう思った。
 おれは自分の電話番号と電話してくれとのメッセージを添えたメモを彼女に渡し、ふたりは別れた。

 おれはそのまま会社に行った。
 残業を終え、家に帰ると夜中になっていた。
 お袋が作った夕食を食べ、自分の部屋へ行き、ベッドに横たわった。疲れていた。
 毛布に包まって目を瞑り、彼女のことを考えた。不安と期待がおれを攻めたてた。考えることにも疲れ睡魔がやって来たころおれは気付いた。
 「おれはなんてことをしたんだ! 彼女は耳が聞こえないし喋ることもできないんだ! 電話が出来ないんだ! その彼女に電話番号を訊き、電話番号を渡してしまった!」

 ノックの音がし、返事をするとお袋がはいって来た。
 「さっき言うの忘れてたけど、幸信君から電話あったよ。飲みに行きたいんで電話くれって」
 「うん、電話する」 毛布に包まったまま答えた。
 「あっ、それと、変な無言電話が何回かあったんだけど・・・・。どなたですかって訊いても、返事が無くて、プッシュフォンを押す音だけが聞こえるの」
 
 お袋が出て行ったあと、おれは枕に顔を埋め、泣いた。枕でも押し殺せない泣き声が、唸り声のように大きく頭に響いた。おれは泣き続けた。





by bra-net | 2004-06-10 22:52 | 小説、詩 | Comments(8)
Commented by deko23 at 2004-06-10 23:05
こんばんは~。
続きが読みたい。(^^;
Commented by bra-net at 2004-06-10 23:10
>deko23 さん       
>続きが読みたい。(^^;
さんきゅ~~~ヾ(^∇^)

でも・・・('ノェ') コッソリ・・了だよ

Commented by komocik at 2004-06-10 23:24
胸を打たれます。
俺も続きが気になる・・・。
Commented by bra-net at 2004-06-10 23:33
>komocik さん         
>俺も続きが気になる・・・。

(゚ω゚;)(-ω-;)(゚ω゚;)(-ω-;)サ、サンキュ・・・
Commented by 98765421 at 2004-06-11 02:26
はじめまして。
z_mrkwさんの記事内リンクから来させていただきました。
切なく悲しいです。
実話でないことを願います。
Commented by bra-net at 2004-06-11 09:28
>98765421 さん           
はじめまして~~~ヾ(^∇^)
おれもzさん経由で、拝見してました!

>実話でないことを願います。
残念ですが実話です・・・・おれの話ではないけど・・・・
Commented at 2004-06-11 10:58
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by bra-net at 2004-06-11 11:13
>heteheete さん       
おはよ~~~ヾ(^∇^)

>凄いです。
(*ノノ)キャ

>感謝。
いえいえこちらこそ、いつもお褒めのコメ感謝です ペコリ(o_ _)o))

ますます次期作への意欲が燃えます・・・・
て、はたらけよおれ ・・・・ (;´Д`)
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