カテゴリ:阪神淡路大震災( 20 )
今日、阪神淡路大震災から12年
被災した立場からの大地震の教訓は、


・しっかりした建物に住め。

・木造2階建ての1階はやばい ⇒ 2階が落ちてくる。

・被災直後 ⇒ 行政を当てにするな。なりふり構わず目の前にいる人に助けを求めろ。拒否されたらすぐ次の人を探せ。動いてくれる人はいる。


かな。



震災関係の記事はカテゴリの『阪神淡路大震災』をご覧下さい。
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by bra-net | 2007-01-17 11:26 | 阪神淡路大震災
震災余話 あとがき

~阪神淡路大震災エントリーリンク集~
◆『1995年 1月17日 尼崎にて』 はじめに      6完結編
阪神淡路大震災から今日で11年
◆『震災余話』         9完結編



『震災余話』を読んで下さった皆様、ありがとうございました。
今後阪神淡路大震災について長い文章を書く予定はありません。
しかし現在東京に住んでいて、いつ大地震に見舞われてもおかしくない状況なのでこれからも地震について書こうと思っています。
とりあえず『地震から生き延びる方法』を予定しています。

※bra-netの震災・地震関係のエントリーはカテゴリ『阪神淡路大震災』クリックでご覧下さい。



災害(戦争も)は地獄です。
そして本当に悲惨な話はなかなか外部には伝わりません。
震災の中長田区では家屋の下敷きになり、家族の前で生きながら焼かれた人がいました。
また、ボランティアから、家屋が崩壊して鉄筋の下敷きになり胴体が切断された状態になって死んだ若い女性がいたという話も聞きました。
彼女の頭髪は毟り取られ、彼女の手には髪の毛の束が握りしめられていたそうです。
そして、それを発見したのは同居していた彼女の家族でした・・・・。



こんな話を神戸で聞くと、なんとか災害から死傷者を減らせないものかと、自然に考えるようになり震災のエントリーをアップして来ました。

最近では、ホリエモンの逮捕で姉歯建築士耐震強度偽装事件が新聞の1面から消えましたが、マスコミはじめ関係者が事件への追求の手を緩めないことを強く願います。

本当に悪いのは誰なんでしょうね?

これはわたしたちも考えなければならないことです。
大地震のさい死ぬのはわたしたちなんですから。


※読んで下さった方へ
震災余話についての感想を聞かせて下さると励みになります。
お気軽にコメント下さい。

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by bra-net | 2006-01-27 10:04 | 阪神淡路大震災
震災余話 9 (完結編)
       


震災後、どれくらい続いたろうか。
半年? 一年?
ベッドで寝ていると、微かな揺れを感じる。
TVを付けても地震情報はない(震災後1年位はどんな小さな地震でもが番組放送中にテロップが出た)。

「そうだ、近くの幹線道路を走る大型トラックの振動を、敏感になった体が拾ってるんだ」

そう思ったが、どう耳を澄ましても、トラックの音が聞こえてこない時がある。

何度もそれを繰り返しているうちに、わかった。


体を流れる血液が体を揺らしていたのだ。

そして、それを感じていたのだ!


なんて表現したらいいんだろう。
ベッドに横たわる。
いつもの振動が来る。
そこで耳を澄まし、トラックの音が聞こえて来ないことを確認する。
「どこから振動は来ているんだ?」
神経を集中させる。
すると心臓の鼓動と体を揺らす振動が同じタイミングで規則正しく発生していることに気付く。

この体の揺れはある期間が過ぎたら、全く感じなくなった。地震が来ても、蛍光灯からぶら下がるコードの揺れでやっと「あっ、地震なんだ」と分かるくらいに知覚も鈍感になっていた。


血液の流れから生まれた体の振動を感じる。


今では信じられないが、これは本当のことだ。
自分が意識できない精神の奥底で、おれは地震を恐れていたのだ!
なんてことだ。おれも立派な被災者だったのだ!








さいごに


阪神淡路大震災の書込み、こんなに長くなるとは思わなかった。途中から、想像以上に自分の中で震災が大きいことに気付かされた。

でも、当たり前だよなあ。
あんなこと、ひとが生涯で何度も体験出来るものではないものな。
そして、それを体験した者は、普段は封印してある人類最大のテーマを突きつけられる。
それは・・・















震災余話終り



震災余話 あとがきへ

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by bra-net | 2006-01-27 09:49 | 阪神淡路大震災
震災余話 8
      


たまに飲みに行っていた尼崎の焼き鳥屋の店主はいつも明るく、大きな声でよく喋る。パンチパーマをかけ年は50前後。若い頃ボクシングをやっていたとかで、背は低いが筋肉質である。


 「ブラボーさん、わたし今鬱でんねん、あはははははは」

 「よういうわ。そんな鬱ありますかいな」


挨拶代わりにこんな会話をよくしていた。

可愛くて、愛想のいい二十歳前後の店主の娘が店を手伝っているのだが、父親には厳しい。いつも父親が叱られている。そのときの彼女の顔の怖いこと。



彼も被災者である。西宮で被災し、サラリーマンをやめ店を出した。

二人の娘のうち、大学生の姉を同じ屋根の下で亡くした。 





9 (完結編)へ

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by bra-net | 2006-01-26 12:24 | 阪神淡路大震災
震災余話 7
     


摂津本山駅駅前でのストリートライヴで出会ったフォークミュージシャン岡本光彰氏の曲の歌詞を本人の了承を得て全文掲載する。

彼は大きな被害の出た神戸市・東灘区で被災(自宅半壊・人災なし)。数日後にこの曲が自然に沸きあがり、14年ぶりに音楽活動を再開。以来震災関係の曲を次つぎと生み出すことになる。



阪神淡路大震災 「いのり」被災地より(ダイジェスト)




いのり・被災地より


作詞・作曲 / 岡本光彰



ほとんどの誰もが、思っても見なかった、

いまだに信じられへん、とんでもない災難や。

おじいちゃんも、おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、

若者も、おさな子も、もの言わぬ動物たちも。

みんなみんな、ホンマにエライ目におおてもた。

みんなみんな、ホンマにエライ目におおてもた。



ほとんどの誰もが、言葉を失った、

いまだに安心できへん、恐ろしい天災や。

家々を町並みを、思い出を希望を、

夢を愛を、たくさんの命までを。

みんなみんな、すっかりなぎ倒した、焼いた。

みんなみんな、すっかりなぎ倒した、焼いた。




あれからどのくらいたったろう、この世を去った命は、

行くべき所にたどり着けたろうか?

生き残った僕はというと、日々の仕事に追われて、

何にもできずにいるのが悔しい。



ほとんどの誰もの、時間が凍てついた。

いまだに体が震える、とんでもない災難や。

大好きなあの人も、いけすかんあいつも、

とってもいい人も、めちゃくちゃ悪い人も。

みんなみんな、ホンマにエライ目におおてもた。

みんなみんな、ホンマにエライ目におおてもた。



ほとんどの誰もの、心が引き裂かれた。

いまだに涙があふれる、恐ろしい天災や。

まなびやを仕事場を、ささやかな暮らしを、

笑顔をやすらぎを、たくさんの命までを。

みんなみんな、すっかりなぎ倒した、焼いた。

みんなみんな、すっかりなぎ倒した、焼いた。



あれからどのくらいたったろう。

助けてくれたヒトたちは、今はどこでどうしているんだろう?

あの日あの時、出逢った、あなたのまなざし、励まし。

僕は一生忘れはしない。



あれからどのくらいたったろう。みんなどうしているのか?

僕の悔しさはふくらむばかり。

みんな元気になれたか、みんなもとに戻れたか。

最後の、最後のひとりまで。



あれからどのくらいたったろう。みんなどうしているのか?

僕はこうして唄い始めた。

みんな元気になれたか、みんなもとに戻れたか。

最後の、最後のひとりまで。

みんな元気になれたか、みんなもとに戻れたか。

最後の、最後のひとりまで。




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by bra-net | 2006-01-25 10:20 | 阪神淡路大震災
震災余話 6
    


岡山での3週間の避難生活が終わり、バイクで兵庫・尼崎のアパートに帰る途中、西宮の友人の家に寄った。連絡が取れなかったので、突然の訪問。
大きな2階建ての一軒家がひしゃげていた。おばさんとおじさんが出て来たので話を聞くと、友人は炊き出しを取りに行ってるという。しばらくすると友人が帰って来たので無事を喜び合い見舞金を渡した。
家族は無傷だが、見てのとおり借家が全壊、おじさんと二人でやっているガラス工場が全壊、、先行きの見通しが全く立たないという。
 

「炊き出しの豚汁おいしいよ」というので、近くの小学校に行って並び、豚汁を食べる。帰ってきて、「おれ何しに来たかわからへんなあ」と笑い合う。
 

おれのアパートに風呂はなく、銭湯に通っていたのだが、震災から1ヵ月後、2月頃の尼崎・阪急塚口駅近くにある銭湯の風景は凄まじかった。
神戸方面から来ただろうと思える薄汚れた人たちでごったがえしていた。
何処からみても普通の中年男性が、湯船に浸かって両手で水鉄砲を作り、壁に向かって淡淡と湯船のお湯をぶつけていた光景が印象に残っている。
 

震災の年の春、多数の死者が出た神戸市・本山中町でのボランティアグループのライヴに参加。10名ほどのフォーク系が中心のミュージシャンの中、洋楽を弾き語りで歌う。
最近になって関係者から聞いたのだが、おれの演奏するジョン・レノンの 『IMAGINE』 に涙を流した老人がいたそう。
 

その老人、引退した大学教授で、震災直後崩壊した家屋が並ぶ中家の前にスピーカーを引っ張りだしてクラシック音楽を掛け、近所から顰蹙(ひんしゅく)を買っていたそうだ。何か分かるなあ。教授の気持ち。
 

場所を近くの「JR摂津本山駅」駅前に移し、約1年間、月一回ストリートライヴが行われ、そのほとんどに参加した。
 

リーダーと数名からなる夜警にも参加。「ここは何人死んだ、ここも何人」というリーダーの言葉を聞きながら暗闇の中に浮かび上がる倒壊した家や新地の合間をカチンコを鳴らしながら歩いた。他に物音はなく、カン、カンという澄んだ音だけが辺りに響いた。



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by bra-net | 2006-01-23 09:27 | 阪神淡路大震災
震災余話 5
   

ねむり



泣くのはやめなさい

叫ぶのもやめなさい

悲しみを感じなさい

甘味になるまで感じなさい



信じるのはやめなさい

求めるのもやめなさい

そこにいて歌いなさい

朽ち果てる光を歌いなさい



希望を持てと誰がいったの

明日を信じろと誰がいったの



胎児はひたすら眠るだけ

胎児はひたすら眠るだけ

子宮に抱かれ眠るだけ




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by bra-net | 2006-01-22 08:32 | 阪神淡路大震災
震災余話 4
  


父は既に死去、母は大阪在住、近くに住む弟は無事、おれは失職中。
余震に怖くなり、岡山県・早島町の従妹の家に3週間避難した。従妹には夫と3人の息子がいる。
 

行ってすぐ携帯用のギターを買いに岡山市の楽器屋に従妹と行った。気に入ったものがあったので値切って買った。主人が怪訝そうにしていた。店を出て従妹から聞いたのだが、岡山には値切る習慣はないそう。従妹も驚いていた。値切るのをはじめて見た、と。
大阪では、楽器と電化製品は値切るものです。
 

岡山市表町にある一番大きな楽器屋に行き状況を話し、ライヴしたいのでライヴハウス紹介してくれというと、明日震災のチャリティーライヴがあるという。とんとん拍子に出演決定。
 

200人くらいの客の前で「避難民です」と紹介され、ビートルズの 『DON'T LET ME DOWN』 を弾語りで始めるといつのまにかミュージシャンでステージがいっぱいになり、ドラマー、ベース、E・ギターも加わり、フルバンド化。
 

暇なので、従妹の家のある早島町から表町まで、2日に1度、ライヴの主催者の経営するBARをメインに飲みに行った。
「遊ぶ避難民」というあだ名が付いた。


BARで話を聞くと、皆神戸を心配している。岡山から神戸に遊びにいくのは普通だという。マスターはじめ、店の客の何人かはボランティアとして神戸に駆けつけている。


朝帰りの帰宅時間が次第に遅くなり、最後にとうとう恐れていたことが。
出社の従妹の夫と玄関でかちあい、
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「おかえり・・・・」
「いってらっしゃい・・・・」



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by bra-net | 2006-01-21 11:29 | 阪神淡路大震災
震災余話 3
 


テレビで震災の状況を知り、おれはどうすべきか考えた。
連絡の取れない西宮の友人の元へバイクで駆けつけようか・・・。
おれの住む尼崎市と西に隣接する西宮市の間には武庫川という一級河川がある。報道を見るとそこを境に被災の程度が激変しているみたいだ(尼崎が軽い)。
西宮に入ったあとに、余震で橋が落ちるかも知れない。いや渡っているときに落ちたら・・・。西宮で余震にやられる可能性もある。
せっかく助かった命だ。
そう思いやめた。
 

おれのアパートがもし僅か5km先の西宮の激震区にあったら・・・・。
2階建木造アパートの1階。
死んでいる可能性は大。
ぞっとする。
 

震災翌日の大阪城ホールでのビリー・ジョエルのコンサートのチケットを持っていた。「こんな時に」と迷ったが、行くことにする。
西宮、大阪間の阪急電車は動いていたので、尼崎の塚口より、大阪城ホールに向かう。
乗換えの為大阪・梅田で降車しコンビニにはいった時、不思議な気分になった。
店内は、普通に物が並べられ、たったひとりの客である若い女性が退屈そうに立読みをしている。
梅田から電車で20分、距離で15kmの西宮から西では物資が不足し、電車で40分、40km弱の長田では震災の炎が燃え盛り人々は路頭に迷っている。
目の前の光景が非現実的なものに映った。


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by bra-net | 2006-01-20 11:10 | 阪神淡路大震災
震災余話 2



震災の朝、7時頃だったか、コンビニへ行ったらモノが散乱。
ペットボトルの飲み物を数本買う。
数時間後にもう一度行ったら飲み物はすべて無くなっていた。
 

木造の部屋は震災後の掃除が大変。
砂、砂、砂 ・・・・。
土壁の砂だ。
水槽からは水がこぼれ(魚はそのとき飼っていなかったが)そのうえに砂が落ち、泥状態に ・・・・ (;´Д`)
家屋の下敷きになった人で砂埃を吸ったことが原因で死亡したひとも多いと、神戸の被災者から聞いたことがある。 


昼頃用事があり管理人の部屋へいくとテレビがかかっていた(震災前からおれのテレビは壊れていた)。
神戸の被害を伝えるニュース。倒壊したビル。燃える長田区。
はじめて神戸の惨状を知り、呆然。


地震直後に幼馴染から電話があった(直後は通じた)。
 「とっちゃん、大丈夫?」
 「いい奴だ」と少し感動した。
あとで思うとそれほどいい奴でも ・・・・。
災害直後の心配の電話、効きますぞ。


その幼馴染の友人の話。
その友人は神戸に住んでおり、何とか無事で震災の朝大阪の会社に「地震で行けません」と電話を掛けた。
上司が出たが、冗談言うなと取り合ってもらえない。
その上司、後日やっとのおもいで出社した彼に平謝りだったそうだ。



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by bra-net | 2006-01-19 11:45 | 阪神淡路大震災